20210924

ユダヤ人たちは、イエスが「私は天から降って来たパンである」と言われたので、イエスの事でつぶやき始め、こう言った。
「これはヨセフの息子のイエスではないか。
 我々はその父も母も知っている。
 どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。」
イエスは答えて言われた。
「つぶやき合うのはやめなさい。
 私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来る事は出来ない。
 私はその人を終わりの日に復活させる。
 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。
『父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。』
 父を見た者は一人もいない。
 神のもとから来た者だけが父を見たのである。
 はっきり言っておく。
 信じる者は永遠の命を得ている。
 私は命のパン(命の木の実)である。
 あなた達の先祖は荒れ野でマンナ(知識の木の実・創世記3章3行)をたべたが、死んでしまった(出エジプト記16章・マナの壺は陰府の象徴で子宮の形=ラハブ=忌まわしい者たちの母)。
 しかし、これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
 私は、天から降って来た生きたパンである(命の木)。
 このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる(創世記3章22行)。
 私が与えるパンとは、世を生かす為の私の肉のことである。」
(ヨハネ福音書6章41~51行)


イエスははっきりと、神によって教えられると言われ、自らをもって預言書の言葉を生まれ故郷で証明されました。
聖書を用いても、宗教=人間が作った道ではそこに御心は無く、人が持つ自由の結果として出現したものでしかありません。
自由の結果ですから、正しいか間違いかは問われておらず、文化として育つのも消えるのも、これまた自由であり、人の持つ自由は人が思う以上に優先されている事が分かります。
自由である事こそが、強く守護されているのです。


天使はまた、『神と小羊の玉座』から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。
(ヨハネ黙示録22章1、2行)


エデンの園の中央には、命の木と善悪の知識の木がありました。
二本の木は、二つの玉座の象徴です。
ですから知識の木の方は『死の木』である事から、それが未来のイエスの象徴であり、預言の印しである事が分かります。
ですが生誕された事により死と復活の祭儀に入られ、命の木である御父の教えを受け命の木に成る事から、御言葉パンを食べよと勧められました。
イエス自身が命の木ですから、本当に永遠の命に至るパンを食べさせる事が、お出来になるのです。
神に教えられた十四万四千人(ヨハネ黙示録14章1~5行・マタイ福音書19章12行)は、聖霊を受けて婚姻し、歌を受け伝えなけれはなりません。
アーメン