20210524

太陽が活発になってきたようです。
主の御心に適い、担当御使いが良い報告を天に上げたいたい方々に、御手が伸びる事を期待したいです。


モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。
彼は民の長老の中から七十人わ集め、幕屋の周りに立たせた。
主は雲の内にあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。
霊が彼らの上に留まると、彼らは預言状態になったが、続く事はなかった。
宿営に残っていた人が二人あった。
一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。
霊が彼らの上にも留まり、彼らは宿営で預言状態になった。
一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。
若い頃からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、止めさせてください」と言った。
モーセは彼に言った。
「あなたは私の為を思って妬む心を起こしているのか。
 私は、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
(民数記11章24~29行)


幕屋の周りに集わなくても、主は有言実行されています。
七十人の長老の、それぞれの担当御使いも見ていますから、忘れられる事無く、五旬祭の民家のペトロ達の様に霊は注がれ、預言異言状態で言葉が溢れています。
言葉は神と共にある神ですから、言葉を軽んじずに敬意を忘れない肉の器の神殿には、豊かに霊が主より渡され信頼の証しとなり、人々の目にも明らかとなります。
残念ながらモーセから引き継ぐ前のヨシュアは、神の実在を認識出来ておらず、神の所業をモーセの意思で止めさせようと願いました。
多くの人々の間に今でもよく見られる、賜物を個人の超能力とでも思い込んでいたかのようにです。
もちろんモーセは冷静ですから、自身に注がれた霊を人間が取ったり戻したりなんて出来ませんので、見えない空間内で起きてる事を在るがままに委ねて、多くの仲間の誕生を切望してしています。


言葉を大事にする者には、主は霊を注がれます。
言葉を自身の口の舌の奴隷と思う者には、主は大事な霊をお渡しにはなりません。
言葉を霊を尊重し、敬意を示して使い触れる者には、主は信頼をもって御霊を注ぎ肉の神殿に預けられます。
真理の御言葉の取扱いで、自身が見計られていると思って差し支えありませんから、不作法のないよう注意しなくてはなりません。
特に五旬祭時期だけで良い等という、魔がさす事のないように神の秤を常に意識して、信仰を保ちましょう。
アーメン