20220514

新しい勤務地で、初めての一週間でした。

市役所の時より、プライベートタイムが二時間は長いので、心の中で多少のゆとりがあります。

とはいえ、希望しない交通誘導なので、気疲れは拭えません。

市役所時代の秘書課受付とは違う緊張感で、しばらくは別な役所の面接を断った後悔に、苛まれそうですね。


初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵(ラハブ=陰府)の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。

「光あれ。」

こうして光があった。

神は光を見て、良しとされた。

神は光と闇を分け、光(イエス)を昼と呼び(ヨハネ福音書9章4行)、闇(サタン)を夜と呼ばれた(寝ずの番人の見張りの時間)。

『夕べがあり、朝があった。』

第一日の日である。

(創世記1章1~5行)


先に闇があるからか、聖書では日の入りが一日の始まりです。

ですから霊的には地上ではサタンが先で、イエスは後になります。

その象徴が早々に顕れているのが、兄カインと弟アベルです。


アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

時を経て、カインは土の実りを主のもとに捧げ物として持って来た。

アベルは羊の群れの中から初子を持って来た。

主はアベルとその捧げ物に目を留められたが、カインとその捧げ物には目を留められなかった。

カインは激しく怒って顔を伏せた。

~カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

(創世記4章2~8行)


兄カインは、先にいた夜のサタンの象徴持ち、弟アベルは後に来た光のイエスの昼の象徴持ちです。

ここに早くからサタンの導きで殺されるイエスの、報せがあります。

アダムはサタンの導きで善悪の知識の木の実を食べた為に、主に耕す者として退けられ(創世記3章17~19行)、耕す者を継いだカインも退けられました。

兄弟が持つ象徴の力によって起こった印しで、昼と夜の見張りの者たちへの、最初のメッセージとなりました。

人間と違い、見張りの者たちを裁く事には、高いハードルがあるための手順で、人はただただへりくだるのが幸いです。


イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。

「群衆がかわいそうだ。

もう三日も私と一緒にいるのに、食べ物がない。

空腹のままで解散させたくはない。

途中で疲れきってしまうかもしれない。」

弟子たちは言った。

「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」

イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに小さい魚が少しばかり」と答えた。

そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。

『人々は皆、食べて満足した。

残ったパン屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。』

食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。

(マタイ福音書15章32~38行)


イエスと十二使徒の時代、ファリサイ派や律法学者たちは、旧約聖書の預言者の時代の終わり(マタイ福音書11章13行)を、受けとめられませんでした。

彼らにおいては、救世主が盗人のように予想だにしない時に、生誕されたからです(ヨハネ黙示録16章15行)。

そして現代でも、いまだ十二使徒の十二教会の時間(マタイ福音書14章13~21行)として、終末の七つの教会の時代(ヨハネ黙示録1章20行)の到来を、目が開かれていない宗教者たちが、かつてのファリサイ派や律法学者たちのように、退ける働きに傾いています。

七つの教会に集い、霊が諸教会に告げる事を、イエスが分けた七つのパンとして、耳ある者となり退けず聞ければ、七つの籠に入れます。

イエスや十二使徒が、当時の宗教者たちの影響無く育ち、無学な者たちと宗教者たちから侮られたように、無意味な下地の無い者こそ、失う対価への抵抗感無く集えるでしょう。

それが繰り返される御心ですから、御使いたちにおいても下地無い幼子のような者こそ、導くはずてす(マタイ福音書18章11、12行)。

アーメン