誉れvs盗み

聖書の神の実在を報せるブログ

題『七つの教会の固有名称の報せ』

題・『666の獣が属する七人の王の意味名』

http://blog.livedoor.jp/hhsiwamoto/?p=4


私は語りかける声の主を見ようとして振り向いた。

振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子の様な方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。

~右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣(慈悲の刃と裁きの刃)が出て、顔は強く照り輝く太陽の様であった。

(ヨハネ黙示録1章12~16行)


以前の開示でも触れてますが、八陽火はサタンの『盗み』の権威と戦う宿命にあります。

この戦いは預言で知らされてる戦いであり、イエスがお持ちの七つの輝きの一つである『誉れ』が、盗みの軍門に下り第二グループに属させる事は出来ません。

不可侵の部分であり、盗みで誉れを受けるの成就を切望する者は、イエスの味方ではありません。


初めに言葉があった。

言葉は神と共にあった。

言葉は神であった。

(ヨハネ福音書1章1行)


言葉という霊における戦いは、目が開けて無い者においてはピンと来ない話でしょうが、イエスは七つの輝きの一つも失う事は出来ませんから、盗みで誉れに風穴を開けたい寝ずの番人の思惑に、誰ものるべきではありません。

盗賊団は聖書を知りながら、見えない領域の寝ずの番人に刈り入れされた存在で、先兵役を無自覚で買ってしまっています。

あらゆる言葉で進行のストップを試みて来ましたが、ただただ毒麦が十倍にも百倍にも育つ時間が重ねられただけです。

盗みを発端にとなる事を避けられない為に、誉れに至る事は望めなくなっています。

成立させられないのです。

だから去れと、イエスの誉れの御霊を強く護るのです。


聖書の神の実在を報せるブログで、題・『宗教利用に向かない聖書の本質』と書いてます。

八陽火の開示に触れれば、都合良く扱わなければ宗教利用は難しいと解るはずです。

そもそも、これも繰り返し言ってますが、旧約の預言者も十二使徒も、主の教えを宗教とは言ってません。

ぺトロもパウロも、福音を宗教とは言っていないのです。

愛・真理・信仰と言って信仰心を求めても、宗教心を求めてはおらず、混同して組織への忠誠心を求めたりはしていません。

宗教体系化は、主が認めた自由の結果として認知されてるだけで、その宗教が地上の代行として認められてる訳ではありません。


人が日常の中で、個人で聖書に触れ続ける事は難しいと思います。

離れて行かない為に教会に通うのはプラスと思いますが、「器という神殿が聖霊を受ける準備が整ったので教会を卒業します」というふうに、通過地点としての利用は難しいはずですから、リスクを意識して選択するしかありません。

その教会の教師にとっては面白くないはずですし、残られても邪魔者でしかないはずですから。


開かれてない脳の問題があるのか、信仰心と宗教心が同じという呪い?が実在してます。

かつて神殿の件でイエスも神殿祭司と戦われました。

が、ぺトロたちが民家で最初に聖霊を受け、その後も民家を拠点として活動した様に、器という個々の神殿に聖霊は来て下さいます。

肉眼で確認でき、雰囲気を感じて祈りたい方には無宗教教会思考は難しいでしょうが、前進して欲しいと願います。

これは新しい試みではなく、長く続く戦いですから。


「~ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家の為に神の住まいが欲しいと願ってましたが、神の為に家を建てたのはソロモンでした。

けれども、いと高き方は人の手で造った様な物にはお住みになりません。

これは、預言者も言っている通りです。

『主は言われる。

天は私の王座、地は私の足台。

お前たちは、私にどんな家を建ててくれると言うのか。

私の憩う場所はどこにあるのか。

これらはすべて、私の手が造った物ではないか。』

頑なで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなた方はいつも聖霊に逆らっています。~」

(使徒言行録7章46~51行)


今回はここまで。

アーメン