20211024

イスラエルよ、お前の破滅が来る。
私に背いたからだ。
お前の助けである私に背いたからだ。
どこにいるのか、お前の王は。
どこの町でも、お前を救うはずの者、お前を治める者らは。
「王や高官を私にください」と、お前は言ったではないか。
怒りをもって、私は王を与えた。
憤りをもって、これを奪う。
(ホセア書13章9~11行)


イスラエルと契約した主が王ですが、民は見えない方より見える肉体の者を望みました。
ここに信仰の可視化の壁があり、民は幾度となく偶像崇拝の過ちにおちいりました。


ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
「あなた達はメシアの事をどう思うか、誰の子だろうか。」
彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。
「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
『主は、私の主にお告げになった。
 「私の右の座に着きなさい、私があなたの敵を、あなたの足もとに屈服させる時まで」と。』
 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
これには誰一人、ひと言も言い返す事ができず、その日からは、もはやあえて質問する者はいなかった。
(マタイ福音書22章41~46行)


イエスの肉の血統としてはダビデの子とも言えますが、御父の存在を強く述べられておられた事からも、霊統の系譜こそ真の意味があり、永遠に続く栄光です。
ゆえに無知な者たちがイエスに、「ダビデの子」と誉め言葉として投げかけてた事に、憤りを感じておられたのでしょう。
ファリサイ派を通じて、ダビデを王に指名したのは私だと説明されて、側近の者たちの勘違いも封じられました。


ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。
それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。
それは、『ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた』。
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男はユダヤ人の王と自称した』と書いてください」と言った。
しかし、ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
(ヨハネ福音書19章19~22行)


ピラトには空間内の者の力が働いており、空間内から見る光と闇の勢力に、大きなメッセージとなりました。
光には創造主であり王である贖いの祭儀であり、闇にはへりくだった愛の証明です。
ルシフェルやラハブの価値観には無い、御子の慈愛の証明ですから。
本当に神の右の玉座の方は、人の身で降臨し、七千年の祭儀が完結する為に、その御使命を全うされたのです。
今の時間帯、二人の証人もその使命を全うし、山上の幻の奥義が、完成しなければなりません。
アーメン